風の便り

船造りの合間に見た事、聞いた事、思った事

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暑い夏

今年の夏もやけに暑い。太陽のせいか、それとも人間のなせる業で地球環境そのものが変質しているのか、科学者に解が出せないのだから、所詮素人の出る幕ではなかろう。
それにしても小生がまだガキだった頃、毎日夏休みの日記にその日の天候と気温を記録していた記憶があるが、猛暑と云っても33度、36度だ38度だと言った記憶は無い。
時々NASAの発表する宇宙情報を見ているが、太陽にモいろいろ不可思議な現象が現れているようだ。
太陽さまさまの地球が太陽とのバランスを壊したら人間などひとたまりも無い。
夏と言えば、青い空に白い入道雲が湧き、夕方には時として強烈な夕立に見舞われたものだが、近年都会に見られるゲリラ豪雨はチト違うような気がする。
ずいぶん昔、自作艇で本州一周の旅をしたことがある。
小網代を出て佐島の沖に差し掛かったとき、怪しげな黒雲に出会い、冷たい風と共に強烈な雨に出っくわしてしまった。
小田和湾にまだ未完成のマリーナがあるとの情報を得ていたので、視界も良くない海をひたすら陸に向かって走り、逃げ込んだのが今の佐島マリーナである。
とりあえず艇を岸壁にもやってあたりを見まわした所、明かりのついた喫茶店風の小屋が有ったので、挨拶をと思って行ってみる事にした。
ずぶぬれの若造が二人飛び込んできたのを見て、怪訝な顔で”どうしたの”と聞かれ、いきさつを話すとびっくりし、又すぐに”どうぞゆっくり休んでいってください”と親切な対応をされたのを今でも鮮明に憶えている。
翌日は、森繁泉さんが直々にボートを繰って沖に泊っていた”ふじやま丸”に案内してくださり、船長があの有名な畳敷きのオーナールーム等を案内してくれ、田舎のコジキヨット乗りにとっては過分な待遇を受けたことも、忘れられない旅の一こまである。
夏、青い空に、青い海そして白帆、ヨット。
今、友人がエスカルゴで本州一週の旅をしている。
昨日は丹後の伊根港。有名な向井酒造のポンツーンにもやい、美酒に酔う友人にしっかり楽しめよと声をかけた。
小生もいつかは又、とヨット稼業に携わりながら、今でも20代に見た夢を追っかけたいと想っている。
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  1. 2013/07/25(木) 20:56:59|
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船と船長の物語

人が人に語るとき、当り障りのない物語に擬して語ることがある。
このコラムは、船を良く識っている人はもとより、一般の常識人にも良く解る話として秀逸である。

以下板垣英憲氏のブログより引用

<個々人の主義主張にかかわりなく、「救命ボート」に飛び乗り移った仲間が、船内で気にくわない奴ができると、船長らの意に沿わないという感情的な理由で、船外に排除して、海に放り出したら、それだけ身軽にはなるけれど、船の浮力は強くなるであろうか。
 船主は、「友愛精神」で船を建造し、「友愛の船」と名付けて、多くの人に乗船を呼びかけた。明るい未来を目指して、闇夜に船出して、「暗夜行路」を続けた。
 「友愛の船」13年目にしてやっと、劇的に晴れ舞台に踊り出た。船主は、初代船長になったが、タチの悪い外人にイチャモンをつけられて、辞任。2代目船長は、大物船員を排除して海に放り出そうと画策したものの、浮力は強まらず、大海をあてどなく漂流中、大震災に遭遇、操船を誤り、座礁して、その責任を問われて辞任した。
 3代目の船長は、乗組員の支持は低かったが、大物船員を騙して船長になった。ところが、かねがね大物船員排除のチャンスを窺っていたので、船賃値上げをめぐって賛否が分かれたのを機に、反対した大物船員を排除して、海に放り投げて捨てた。
ついでに、3代目船長は、船が港に入った際に、上陸した初代船長に対して、再乗船するには、「現船長が決めたことは何でも従うべし」と書いた誓約書に署名しなければ、再乗船は許可しない」と記した書面を突き付けた。船主としてのブライドを傷つけられた初代船長は、悔しさに唇を噛みしめて涙ながらに、再乗船を諦めざるを得なかった。
 船主は、「私が愛したこの友愛の船は、いまは盗賊たちの巣窟と化した。3代目船長は、船員たちの総意で引き摺り下ろされそうになったのに、船を沈没させてしまうぞと脅して、一旦、造修所に船を入れてしまった。造修が成功する見込みは立たないにもかかわらず、船員たちに誓約書を書かせている。船長と船員とが信頼し合い、心と心で結びついていれば、こんな姑息なことをする必要はない。だが、船長は、いまやいつ寝首を掻かれるか疑心暗鬼になっているのだろう。いかに仁徳なく、慈愛の心がなく、包容力も欠けているかを示している。この男は、人間ではなく、所詮は、ドジョウなのだから仕方がない」と嘆いている。  
 かくして、「友愛の船」は、「盗賊の船」と言われて、悪しき3代目船長の粗暴な振る舞いに明るい前途は開けず、いま特攻命令が下り、玉砕、「集団自殺」するのを怯え、おののきながら、待っているとかや。>
  1. 2012/11/23(金) 10:38:52|
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ヨットの面白さ

ヨットの魅力って何だと思う?最近ヨットに憧れるというか、ヨットに乗ってみたいとか言う人がめっきり少なくなって、時々こんなテーマで話し合う事がある。
小生の場合は、たまたま入った寮の先輩がヨット部のキャプテンだった事で、誘われるままに体験したのが始まりである。
身近にヨットを持ってたり、或いはヨットの経験のある人がいなかったら、体験する事はなかなか難しいことかもしれない。
いまさら初体験の話をするのも恥ずかしいのですが、5月の北風がやや強かった日、追手の風を受け快調に走っている最中に、突然の沈、必至に起そうとしたのですが、センターボードが上がったままでは起すに起せず、浜に流されるのを待ってから対処しようとそのまま艇にしがみついていました。
これが3段ぬき新聞記事になってしまうのですが、いやはやとんでもない初セーリングでした。
本来の負けず嫌いの性格がそう導いたのか、別にそれに懲りる事もなく、そのままヨット部に入り、一丁前のセーラーを目指そうと思ったのが運の尽きだったのかもしれません。
ある程度操縦できるようになってから、友人とショートクルーズに出かけました。
その日の天候に恵まれ、程よい風を受けてのセーリングは今もって忘れません。その心地よさこそセーリングの原点だったと今でも思っています。
我がヨット部は、レースなどとは程遠く、創始者S先輩の作ったカデットディンギー(舵社のヨット工作法を見て自作)が始まりで、小生が入部した時には、横山晃氏のY-15、(155、241号)が出来上がっていました。
こういった経緯から、小生のヨットに対する興味は初っ端から、セーリングと、自作という組み合わせでスタートしたわけです。
ディンギー乗りから始まったセーリングは、県大会の開催、弘前大との交流、国体への出場と輪を広げ、卒業後は造船所へ入ったこともあって、SSCRからNORCの本格的な外洋レースへと取り付かれたようにヨットの世界にのめりこんでゆきました。
何がそこまで自分を駆り立てたのかと時々振り返ることがあるのですが、改めて問い詰めてゆくとまるで走馬灯のようにセーリングの一こま一こまが目に浮かび、それとその時同乗していた仲間との絶妙なコミュニケーションが思い出されます。
あの大島レースの夜のスピン戦、小網代カップでのディスマスト、そして華やかな鳥羽パールレースのスタート、ヨットレースには心を震わす魅力が一杯ありました。
ヨットの練習航海も、またレースの回航も絶好のクルージングチャンスで有り、知らない港へ入る時の緊張感もまた忘れられない思い出です。
ヨットを自在に操れる技量を身につけること、そしてそれこそ千変万化する海を乗り切って目的地へ無事たどり着く事、この行為そのものの中にヨットの全魅力があるのではないかと思います。
ヨットを友とする人生には、心から感動する場面に遭遇するチャンスがたくさんあります。
とにかく、いろいろヨットに乗って体験する事、後で振り返るとこれがヨットの魅力だったのかと思い起こす事を期待しています。
  1. 2011/09/08(木) 21:10:00|
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新しい波

最近、指折り月日を数えるといった所作をしなくなったせいか、1年が1日といったふがいない生活を送っている。
先にこのブログに記してから1年以上もたっているとは考えても見なかったことである。
それでも地球は......でもないが、我が造船所もかすかな鼓動を保ちながら動いております。
この1年に手掛けた新艇は、僅か3隻、かろうじて造船所の面目を保っているというのが現状です。
そして本年,多少サプライズがありまして、なんと”造船の仕事を覚えたい”という若者が志願して来て、居を構えてしまいました。
確かにまだ捨てがたい魅力のあるこの業界ですが、艱難辛苦.....という言葉が思わず出てしまいそうな雰囲気をものともせず、店(居酒屋)を畳んで参上する意気込みには降参しました。
長く造船の仕事をしていると、付帯する業務もそれなりに増えていて、修理、リニューアルはもとより、マリーナ業務、ショップ、クラブ運営、廃船処理業、と何やかや一人で切り盛りするのも大変です。
かといって、定期的に仕事がある一般会社とは違って今では常雇用するだけの余力はありません。
小生も駆け出しの頃は、いつかは自前の造船所を持ち、自ら設計したフネを自らで造り、乗り、レースに出てトップを取り、果ては世界一周もなんて考えてはいましたが、不思議なもので”夢”を追っかけていると何時かは実現してしまうものだと、最近実感しています。
最近ある人から薦められて、”ザ.シークレット”という本を読みましたが、正にそのことを具体的に表現した考察本だと思います。
”大金持ちになりたい”と念じ続ければ必ずそうなるといった事が説いてありますが、思いが”信念”にまで到れば、宇宙の霊的な作用?でそうなるのかもしれません。
人間の身近な思いは努力によって大外の事は叶います。
夢が叶うかどうかは、思い込みが信念にまで到るかどうかの事で、夢想が実想にちかくなれば、人は次から次へと想像力を働かせ、夢を実現に向けてのレールに乗せるのかもしれません。
最近ちょくちょくパイプをくわえた例のマッカーサ司令官の写真を目にしますが、戦前生まれの我々から見ると、あの写真は戦後の始まりであり、東北の地震災害は、正に戦後の東京の焼け野原を思い起こします。
あの頃少年期を過ごした我々世代が今の若者に望むのは、無からの出発です。

あえて”夢”を持つことを提言するのは、それが人生の全ての出発点になり得ると思うからです。

最後に、第九代米沢藩主、上杉鷹山の言葉とされる歌

成せば成る
成さねば成らぬ
何事も
成らぬは人の
成さぬなりけり




  1. 2011/09/05(月) 21:06:40|
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舟艇業界の今後を考える

ヨット、モーターボート等の製造、修理及びそれに関連する業界を一般的に舟艇業界と呼んでいる。
リ-マンショック以来仕事が激減しているのは、何も舟艇業界ばかりではないが、バブル崩壊以後のこの業界は惨憺たる形相を見せている。
毎年社団法人日本舟艇工業会が前年度の出荷隻数等を公表しているが、国産のクルーザー型ヨットの平成21年の出荷隻数は、僅か3隻、輸入艇は14隻である。
古い資料が見当たらないので、最盛期にどれだけ生産されていたのか数字で示す事ができないのは残念だが、現有隻数から見て、少なくともヨットは100~150隻には達していたと思われる。
ヨットの耐用年数は普段の手入れさえ良ければ30年~50年と考えられるので、新艇の数は増えなくても、意外と現役艇の数は減っていない。
一時、韓国等に100隻前後の中古ヨットが流れた時期もあったが、廃船数と勘案しても目減りは最盛期の3割ぐらいではないかという気がする。
オーナーの年齢層が年々高くなり平均年齢60歳との話もよく聞くが、当らずとも遠からずかもしれない。
いずれにしても、若年層の参入が少ない世界は、衰退の一途をたどると言われているし、業界もそこは覚悟しなければならないと思う。
今後2世に船が引き継がれ、再び伸びが期待される事を切に願うものではあるが、多様化した娯楽の世界にプレジャーヨット、ボートがどの位魅力ある存在になりうるのだろうか?
クルージング、ヨットレース、釣、クラブライフ、未だ高嶺の花と思われているこの世界が日常と違和感無く融合できる時、新たな一歩が生れるのではないかと常日頃考えてはいる。
人々の意識の変化、取り巻く環境に大きな意味での変革を期待するものではあるが、ここ数年は望むべくもないだろう。

現状のこの業界はともすると悲観的になりがちで、何十年と培ってきた造船技術も、後に続く若者が皆無となると、この先に見えてくる業界の姿に暗澹たるものを感じるが、モノを創(造)る、修理するといった面白さを教える所から再出発を考えてみたいと思う今日この頃である。

  1. 2010/06/27(日) 20:22:21|
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